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路面電車情報

「都電」の愛称で親しまれ東京都交通局



東京都が運行していた路面電車は「都電」の愛称で親しまれ、ピーク時は年間で乗客数が7億人を突破するなど、盛況を見せていました。2度の被災を乗り越え、オリンピックに追いやられた都電の歴史は首都・東京の歴史でもあります。

東京都交通局の黎明期

東京都交通局の黎明期

東京都交通局の歴史は、1911(明治44)年に東京鉄道から新設された当時の東京市電気局に、電気事業を含むすべての事業が引き継がれたところから始まります。社員は約8千人、車両数は1,054台で、利用客は1日平均51万人を超えていました。

その後、第一次世界大戦の活況から乗客数はさらに伸び、1917(大正6)年には81万人、さらに1919年にはついに100万人を突破します。東京市電気局はこれを受け、大型のボギー車や連結車を導入しますが、順調に推移してきたところへ、1923(大正12)年の関東大震災が発生しました。これにより全焼した営業所は4ヵ所、焼失車両は779台、軌道損壊は152kmにも及びました。

年間乗客数が7億人にまで達した時代も

昭和に入ると、不況の影響とバス・タクシーの台頭により、乗客数が減少の一途を辿り、郊外電車の新設や地下鉄の開通なども重なって、東京市電は危機的状況に追い込まれていきます。この危機を救ったのは、皮肉にも戦争でした。ガソリンの不足によりバスやタクシーは運行規制がかかり、その反動からか1943(昭和18)年には乗客の数が年間7億人に達するという、盛況ぶりを見せていました。

戦中に都制が引かれ、7月1日より東京都になると、東京市電気局の名称も東京都交通局へと改められました。直後の1945(昭和20)年の東京大空襲で、2度目の大きな被害を受けてしまい、スタートしたばかりの東京都交通局は壊滅的な状況となります。戦災からの復興を目指し、東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の天現寺線を買収して、都電の路線に組み込んだ他、西武鉄道新宿線を杉並線としました。こうして既存路線も1949(昭和24)年には全路線が復興しました。

東京オリンピック開催が拍車をかけて廃線に

ところが、1948(昭和23)年より赤字に転落してしまいます。郊外の開発で都心が空洞化したことと、急速なモータリゼーションの発展で、渋滞が常態化してしまい、軌道線は次第に立場を悪くしていきました。

また、東京オリンピック開催のための道路整備も相まって、路面電車は不要なものだという見方が強くなっていきました。そして、オリンピック開催を翌年に控えた1963(昭和38)年には、青山一丁目~三宅坂間と半蔵門から九段上間の軌道が撤去され、これが廃止第一号となりました。

これ以後、続々と路線の廃線が決まり、当時の美濃部亮吉都知事は施政方針演説の中で1971(昭和46)年までに全廃すると発表しました。これに基づき1967(昭和42)年から5ヵ年計画で撤去作業が行なわれ、1972(昭和47)年11月12日には、荒川線の一部を残して都電の歴史が幕を閉じることとなりました。