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路面電車情報

市営からスタートした大阪市交通局



他の大都市に先駆けた市営鉄道の運営や様々な合理化施策など、商都・大阪にふさわしい試みが数多くなされてきた、大阪市交通局の軌跡を辿ります。

大阪市交通局の黎明期

大阪市交通局の黎明期

大都市の市街電車は、その多くが民営から始まったあとに公営化されたものですが、その中で数少ない例外が大阪です。理由はいくつか考えられますが、当時の市長であった鶴原定吉が熱心な公営論者で、市民第一主義を掲げていたことが挙げられます。実はこの裏には安定した財源の確保が必要だったという背景があり、この手法は各都市の鉄道市営化の先駆けとなりました。

大阪市交通局は、1903(明治36)年2月に開業に関して許可がおりると、6月には工事に着手し始め、8月には花園橋~築港桟橋間(およそ5km)の区間を竣工させます。これが大成功を収めると、1905(明治38)年には市の工務課内に電気鉄道係を新設し、翌年には電軌鉄道課へ昇格させました。こうして梅田~恵美須町間の開通を皮切りに、恵美須町~大江橋などの第2期線、上本町四丁目~上本町五丁目などの第3期線と、市街地での延伸が相次いで行なわれていきます。

開通ラッシュと戦時の特別運行による活況

さらに大正時代に入っても、開通ラッシュは続きます。市内中心部を網羅したあと、淀川~都島橋間や京橋~片町間など都心の拡大と合わせて、市内東部へと路線の拡大を図ります。その後はバスの台頭で一時期乗客数が伸び悩むものの、戦時体制に伴って再び客足が戻ります。一人でも多くの乗客を乗せるために座席をなくした車両や、戦地に招集された男子に代わって労働に駆り出された女性を乗せる女性専用車などが、運行されるようになりました。また、女子の運転士や学徒の車掌なども動員されるようになります。

1945(昭和20)年の大阪大空襲では、甚大な被害を受けますが、大阪市交通局と組織を改編すると復興に向けて動き出します。当時は引き揚げの人々や買い出しの市民で連日超満員の状態となっていました。また、大阪市交通局としても、車両を新しく投入するなどして、輸送量の回復に努め、こうした努力の甲斐もあって、輸送人員は100万人の大台まであと少しというところまできていました。

交通マヒの元凶と目され廃線ラッシュへ

同時期にモータリゼーションの波が大阪にも押し寄せます。これにより市内の交通渋滞が常態化し、1960(昭和35)年には「北大阪の10時間交通マヒ」として語り継がれる事態が発生します。これにより市電はマスメディアの激しい攻撃を受けると、開通ラッシュの勢いと同じ猛烈なスピードで、今度は廃線ラッシュが起きてしまいます。名目上は赤字路線や地下鉄開通に伴う廃止とされましたが、全面廃止論の勢いは止まらず、1969(昭和44)年3月31日には、阪急東口~守口間と玉船橋~今里車庫前間でお別れ運転が実施されました。最終電車の乗務員に花束が贈呈され、「蛍の光」が演奏されるとともに「万歳コール」も起きていました。