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戦後復興をリードした名古屋市交通局



大規模な災害や戦争を潜り抜けてきたものの、交通戦争の前には太刀打ちできずに廃線へと追い込まれていった、名古屋市電の軌跡を辿ります。

名古屋市交通局の黎明期

名古屋市交通局の黎明期

1922(大正11)年に行なわれた名古屋電気鉄道市内線の名古屋市電気局への移管は、賛否が分かれる中、市民やマスコミにおいては概ね好意的に迎えられました。名古屋市が引き継いだのは車両215台、ボギー車15両、42.5kmからなる路線でした。

引き継がれた路線と距離

引き継がれた路線と距離は次の通りです。

  • 栄町線名古屋駅~千種間 4.2km
  • 押切線志摩町~押切町間 1.6km
  • 公園線赤塚~門前町間 4.7km
  • 築港線熱田駅~築港間 5.1km
  • 江川線浄心~船方間 8.1km
  • 覚王山線西裏~覚王山 2.3km
  • 片端線明道橋~平田町間 3.0km
  • 大曽根線東新町~大曽根間 3.6km
  • 堀内線名古屋駅~那古野間 0.8km
  • 熱田線栄町~東築地間 9.1km

市営化され祝賀の花電車が走ると、記念の絵ハガキも発売され、初日の売り上げは名古屋電気鉄道時代の5倍にも上りました。

戦中戦後を通してある限りの輸送力で対応

老朽車両や設備の改良を課題としながらも、5ヵ年計画のもと路線は順調に拡大を続けていきますが、昭和不況とバスの台頭により一時的に経営危機が訪れます。市電側は名古屋城縦覧を記念した記念乗車券や懸賞付きの回数券を売り出すものの、大きな効果は見られませんでした。それでも日中戦争や太平洋戦争への発展で戦時体制に入ると、ガソリン不足からバスへの制限が強まり、また軍事工場への輸送需要の高まりもあって、乗客は再び増加に転じました。1944(昭和19)年頃には米軍の空襲も激化し、さらに東海大地震の発生による被害も重なり、数多くの車両や施設が損害を被り、名古屋の町は焼け野原と化します。それでも戦後は軍需輸送から市民の足として復興をリードするように走り続け、市民に大きな勇気と希望を与えました。そして終戦から2ヵ月後、電気局は交通局と改め、新たなスタートを切りました。

自動車や地下鉄の台頭と台風災害に押され廃線へ

戦後も順調に路線を拡大していきましたが、昭和30年代に入って事態は一変します。地下鉄東山線名古屋栄町間が開通すると、1958(昭和33)年には電気料金値上げの影響によって収支が赤字に転じ、さらに伊勢湾台風の被害が追い打ちをかける形となります。被災額は4億円にも達した上、その後もモータリゼーションの進展を受け、赤字額は年々増え続け、昭和40年代に入ると大曽根~東大曽根間が、続いて今池~栄間が相次いで廃止されます。さらに市は昭和48年度までに市電の全線撤去を決定し、昭和48年度末に当たる1974(昭和49)年3月31日に、77年にわたる名古屋市電の歴史に幕が下ろされたのでした。