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文明開化をもたらした横浜市交通局



通商条約調印による開港以来、貿易港として栄えた横浜の市内交通を支えてきた横浜市交通局の歴史とその盛衰を紹介します。

横浜市交通局の黎明期

横浜市交通局の黎明期

地方の一漁村にすぎなかった横浜ですが、日米修好通商条約締結で1859(安政6)年に横浜港が開港すると、東日本を代表する貿易港として発展します。それから馬車や人力車を経て、横浜に初めて電車が登場するのは1904(明治37)年7月に、横浜電気鉄道が神奈川~大江橋間に開業したあとのことでした。条約調印から45年が経過していました。

その翌年には、大江橋~西の橋(元町の手前)間を延長し、1911(明治44)年には羽衣町線が開通すると、続けて西の橋~本牧原間も開業します。この区間には全国でも珍しい専用軌道のトンネルがありました。1921(大正10)年になると、横浜電気鉄道はインフレと不況に耐えられず、横浜市に買収され電気局として公営化されます。

震災復興と戦時体制に一喜一憂の時代

公営化から2年後、関東大震災が発生し、街も鉄道も壊滅的な被害を受け、被害は死者2万人、重軽傷者1万人、焼失車両は75両に上りました。震災復興事業は国と県と市の三位一体で行なわれ、市電の新線建設やルート変更なども合わせて検討されるようになりました。また、震災後バスやタクシーが普及しますが、市電も「納涼電車」の投入や女性車掌の起用、往復割引乗車券の発売などサービス強化に努めます。

その後、日中戦争の勃発でガソリン統制が行なわれ、市電の重要性がさらに増してくると、1940(昭和15)年には急行運転を実施し、さらに1944(昭和19)年には京浜工業地帯への労働者輸送ニーズに応え生麦~鶴見駅間を開業するなど、輸送力増強を行ないます。それでも横浜には29回もの空襲があり、1万8,930人の死傷者を出し、車両の焼失も44両を数えました。

鮮やかによみがえり静かに姿を消した港町の路面電車

終戦を迎えた1945(昭和20)年8月、旧日本海軍厚木飛行場に到着した連合軍総司令官マッカーサー元帥が、横浜のホテルニューグランドに宿泊しました。横浜は進駐軍による接収区域が多い地域でした。車両の復旧はかなり早く進み、1949(昭和24)年に開催された日本貿易博覧会での輸送にも華々しい活躍を見せました。

しかしその後、自動車が増加し始めると違法な軌道敷内通行があとを絶たず、神奈川県公安委員会は1960(昭和35)年に東神奈川駅西口~青木橋間の国道1号線を軌道敷内自動車通行可としました。

こうした流れを受けて、都市交通審議会は路面電車の逐次廃止を打ち出し、これに基づき次々と路線の廃止が進められ、1972(昭和47)年を最後に全線が姿を消しました。さよなら電車を見送るファンは多かったものの、市民の反対運動もほとんど起きない、静かな幕切れでもありました。