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多摩川の砂利運搬から始まった東急玉川線



東急玉川線は、砂利運搬鉄道として始まり、大正時代の路線拡大から他社との激しいシェア争いを経て、戦後復興から東京オリンピックに至るという、まさに東京の激動期を駆け抜けてきました。その東急玉川線の歴史を紹介します。

東急玉川線の黎明期

東急玉川線の黎明期

前身の玉川電気鉄道は多摩川で採取された砂利を運搬することを目的に建設されました。出願が出された1896(明治29)年当時は、「玉川砂利電気鉄道」という名称でした。1902(明治35)年に名称を玉川電気鉄道と改めると、5年後の1907(明治42)年2月に道玄坂上~三軒茶屋間が開通しました。さらに同年4月に三軒茶屋~玉川間に延伸され、8月には渋谷~三軒茶屋間も開通されるなど、瞬く間に全通されることとなりました。軌間は1067mmで一部区間を除く複線での運行でした。

最盛期を迎えた大正初期から昭和初期

この時代にあって、電車は早朝5時50分から夜9時10分まで渋谷~三軒茶屋間、三軒茶屋~玉川間ともに20分間隔で運行されており、1区間の運賃は4銭とされていました。また沿線開発も積極的に進められ、遊園地の建設や住宅地の開発などにより、旅客者の利用者数はもとより砂利運搬などでの利用も増大していきます。

こうした中、玉川電鉄は東京市電に合わせて軌間を1372mmへと変更し、さらに東京市電との接続を行なうため渋谷~恵比寿駅前(のちの渋谷橋)間を開通させた他、旅客と砂利などの貨物の運行分離などにも着手しました。

その後、1924(大正13)年には、恵比寿駅前から天現寺橋までさらなる延伸に始まり、同年の砧線玉川~砧間の開通、続く1925(大正14)年には三軒茶屋~下高井戸間(現在の東急世田谷線)、さらに1927(昭和2)年の渋谷橋~中目黒間及び玉川~溝ノ口の開通とつながり、路線の拡大がピークを迎えたのでした。

転換期となった東京横浜電鉄による吸収合併

当時、同じく渋谷を起点に横浜へと路線拡大を図っていた東京横浜電鉄が玉川電鉄の拡大に危機感を抱き、両社の攻防が激化しました。その後、鉄道事業で名を馳せ、阪急の小林一三と氏ならび、「西の小林、東の五島」とうたわれた東京横浜電鉄総帥・五島慶太氏の力によって玉川電鉄は東京横浜電鉄に吸収合併され、路線は「東京横浜電鉄・玉川線」と名付けられます。

その後、第二次世界大戦の勃発とともに東京横浜電鉄は小田急電鉄、京浜電気鉄道と合併し「東京急行電鉄」として再スタートします。「玉川線」は軍需輸送に対応するための改軌(かいき)などが行なわれるようになりました。

戦後の再興とオリンピックによる廃線

戦後、小田急や京浜電鉄らはそれぞれ再び独立し、天現寺線が東京都交通局に譲渡されるなどの改編が行なわれます。「いもむし」の愛称で親しまれた東京デハ200形連接車が投入された昭和30年代以降は、急速なモータリゼーションの拡大により、東京の道路事情は悪化の一途を辿ります。東京オリンピックの開催に向けた道路拡張及びオリンピック後の高速道路建設なども重なり、玉川線の存続は難しくなっていきます。こうして路線の大部分である渋谷~二子玉川間が1977(昭和52)年に地下鉄化されると、三軒茶屋~下高井戸間を除く全線が姿を消すこととなりました。玉川電気鉄道の名残はこのわずかな路線にのみ現在も残されています。