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北陸鉄道金沢市内線



北陸鉄道金沢市内線は、難産だった出発から順調に延伸を続け、戦後間もなく4,000万人近い乗客数を数えたこともありました。そうしてピークを迎えたものの、クルマ社会の到来という時代の波によって、瞬く間に姿を消す運命を迎えました。ここでは、そんな北陸鉄道金沢市内線の軌跡を追います。

北陸鉄道金沢市内線の黎明期

北陸鉄道金沢市内線の黎明期

北陸電気軌道が1911(明治44)年に初めて出願した8年後となる1919(大正8)年、金沢駅前~車庫前間2.47kmが開業します。このときに、ようやく金沢に路面電車が運行されるようになり、これに至る間に北陸電気軌道は、金沢電気軌道へと社名を変更しています。

開通したその年に、早速車庫前~香林坊~犀川大橋間、武蔵ヶ辻~香林坊間の循環ルートと、兼六園~小立野間が相次いで開業します。開業に際しては賑やかな花電車パレードが催されました。

翌年の1920(大正9)年には、松金電車軌道と金野鉄道を合併し、拡大を続けます。さらに路線の延伸は留まることを知らず、同年には犀川大橋~野町間を皮切りに、翌年には野町広小路~野村兵営前間、朝野川大橋~小坂神社前間、橋場町~浅野川大橋間を3年間で次々と開通させていきます。

昭和初期から戦後にかけて、最盛期を迎える

昭和に入り、戦時下になると1941(昭和16)年に、北陸3県の11の電力会社を統合します。そして、新設された北陸合同電気に合併し、金沢電気軌道は同社の交通部となりますが、翌年すぐに独立し、北陸鉄道として新しいスタートを切ります。

終戦直前には小坂神社前~鳴和間、白銀町~金沢駅前間の迂回線、さらに戦後間もなく鳴和~東金沢駅前間が開業しました。そして1947(昭和22)年には、年間3,900万人の乗客数を記録し、利用者数のピークを迎えます。この頃には、夏になると市内線から浅野川線粟ヶ崎海岸への直通電車が運行され、多くの海水浴客で賑わっていました。

モータリゼーションの波に押されて廃止

しかし、金沢における路面電車の頂点は、この時代で終わってしまいます。城下町だった金沢市内は外敵の侵入を防ぐことを目的に作られたため、坂と曲がり角が多く道幅が狭いことが、路面電車にとっては大きなネックになっていました。また、モータリゼーションの進展で自動車の通行が増えるにしたがって、市民からは路面電車の廃止を要求する声が次第に高まり、1965(昭和40)年頃にはすでに、交通渋滞によって定時運行が難しくなっていました。そして1966(昭和41)年に、鳴和~東金沢駅前間が道路拡幅のため廃止されると、翌年2月には全線が廃止されました。最終日には「さよなら電車」が運行され、市内を一巡したあと車庫に入り、48年に及ぶ歴史に幕を閉じました。