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路面電車情報

大分交通別大線



70年以上に及ぶ長い歴史を持つ大分別大線は、軌道免許の取得から事業の拡大、経営統合を繰り返します。しかし、その後は経営が悪化したり、大事故を起こしたりするなど、激動に次ぐ激動の繰り返しでした。そのひとつひとつの足跡を振り返ります。

大分交通別大線の黎明期

大分交通別大線の黎明期

日本でも有数の温泉地である別府と、大分県の県庁所在地にして経済の中心地である大分とを結んでいたのが、大分交通別大線でした。別府と大分の間に軌道線を敷設しようという動きが起こったのは、1889(明治22)年のことでした。

発起人の3人が合同で電気軌道の敷設にあたることで合意し、1894(明治27)年に敷設免許を取得しましたが、日清戦争勃発により一時頓挫してしまいます。

その2年後、ようやく前身となる豊洲電気鉄道が設立され、1900年には、別府町字南町~大分町字堀川間7.7kmが開通します。これは、九州では初めての電車となりました。しかし、鉄道に戸惑った市民は電車を利用せず、経営は悪化してしまい、わずか6年で経営が破たんしてしまいます。同年には豊後電気鉄道に事業の一切が譲渡されました。

急激な拡大と経営統合による合理化

豊後鉄道はPR活動やイベント企画などで、住民への啓蒙を積極的に行なうと同時に、馬車と比較しての優位性をアピールするため、スピードアップに努めました。その甲斐もあって、利用者数は増加したものの、日露戦争による石炭の高騰の影響を受けて、兼営していた電気事業に陰りが見え始めます。

1907(明治40)年に水力発電の会社を買収すると、大分に進出してきた九州水力電気によって経営統合が進められ、豊後鉄道は先に買収した水力電気会社ともども吸収されてしまいます。

九州水力電気は、資本力をバックに1917(大正6)年の南新地~外堀間の開業をしました。それを皮切りに、外堀~大分駅前間、さらには警察署前~函萏(かんたん)間に、新川経由で新線が開業します。さらに、鹿児島からの船が寄港できるよう、南町~桟橋まで延伸するなど立て続けに路線の拡大を図っていきます。

しかし、この拡大は不況の到来によって裏目に出てしまい、関西の鉄道王・小林一三氏率いる阪急の系列会社・別府大分鉄道として、再出発を図ることになります。

バスとの競合、そして事故により廃線へ追い込まれる

戦時の交通統制により大合併が実施されると、他の鉄道4社などとともに大分交通となり、終戦間近の1945年4月に大分交通別大線となりました。戦後は車両設備の復旧も順調に進み、朝鮮戦争特需による経済活況も重なって、回復の兆しが見えたものの、バスの進出により利用者数は減少を始めます。

また、1961(昭和36)年に、集中豪雨によって電車が土砂に埋没してしまい、乗客31名が死亡する事故が発生したことも、別大線に大きな打撃を与えました。

他の路線が続々と廃止される中で、別大線だけは存続されてきたものの、1971年(昭和46年)には大分県からの軌道線撤去要請が出されます。翌年4月の大分駅前~亀川駅前間の運行を最後に、別大線は72年の歴史に幕を閉じることとなりました。