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路面電車情報

成宗電気軌道



成宗電気軌道は、成田山新勝寺へ観光客を運ぶために開通しました。しかし、地元住民の反対運動や戦時の自粛ムードなどが重なり、思うように観光列車としての役割を果たせませんでした。ここでは、その数奇な運命を紹介します。

成宗電気軌道の黎明期

成宗電気軌道の黎明期

真言宗智山派の総本山・成田山新勝寺の門前町である成田町(現・成田市)に、初めて鉄道が開通したのは1897(明治30)年のことであり、成田鉄道(現・JR成田線)が佐倉成田間を運行したのが始まりでした。

成田鉄道の成田駅から新勝寺を経由して宗吾霊堂まで結ぶ計画は、かねてより出ては消えという状況を繰り返していました。しかし、1908(明治41)年になって、ようやく、大資本家・才賀藤吉氏を中心に、成宗電気軌道が設立されたことによって実現します。

ところが、門前に電車が入ることで門前町が廃れることを懸念した住民の反対により、門前町を避けた東側にトンネルを掘って、建設が進められることになりました。そして、1910(明治43)年12月11日には成田駅前(のちの本社前)~成田山門前(のちの不動尊)間が、翌年には成田駅前~宗吾間が相次いで開通し、全通しました。これは千葉県初の電気鉄道でした。

相次ぐアクシデントに見舞われた開業時

しかし、成宗電気軌道は、開業直前から相次いでアクシデントに見舞われてしまいます。開通直前の9月に宗吾霊堂が火事になり、門前の民家の大半が焼ける事故が起こりましたが、この火元となったのは、成宗電気軌道の作業小屋でした。

また、開業後に成田電気軌道と改めるも、設立者の才賀藤吉氏が破産し、代わって実権を握ろうとした東京の投機業者は1918(大正7)年に廃止の決議をします。

そして、住民の猛反対を受けたことで、千葉県が事態収拾に乗り出し、路線の単線化と車両減を行ない決着しました。こうしたアクシデントを経て、成田電気軌道は京成電気軌道の傘下へと入り、千葉県営鉄道多古線・八街線と共に成田鉄道(旧成田鉄道はすでに国有化)という名前で、再出発を図ることになりました。

戦局が逼迫するなか、政府命令による廃止が決定

成田鉄道は再出発したものの経営は好転せず、乗合自動車の発達で乗客は奪われ、自動車通行の邪魔だと言われることもあり、幾度となく廃止が検討されました。日中戦争や第二次世界大戦の勃発でガソリン不足に陥り、バスの運行がままならなくなったことで、乗客数増が期待されましたが、不要不急の旅行などは自粛することが求められた時代、観光客は見込めませんでした。

そして、1944(昭和19)年になると、政府命令によって廃止が決定されました。最後の電車が運行されたのは、奇しくも開業日と同じ12月11日のことでした。