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路面電車情報

琴平参宮電鉄



観光客や琴平宮への参詣客を乗せることを目的に敷設された琴平参宮鉄道は、「ことさん電車」の名前で住民に愛されていました。バス路線をはじめとしたライバルの台頭で、廃線へ追いこまれるまでの軌跡を振り返ります。

琴平参宮鉄道の黎明期

琴平参宮鉄道の黎明期

琴平参宮鉄道は1922(大正11)年、「こんぴらさん」の愛称で知られる金毘羅宮への参詣客輸送を目的に設立されました。まずは丸亀通町~善通寺間が開通し、翌年には善通寺~琴平(のちの琴電琴平)が開通して、全通となります。「マッチ箱」というニックネームが付けられ親しまれた車両は4輪木造で、1日に16時間・15分間隔で運行されており、運賃は26銭でした。

丸亀港に着く船との接続が良いこともあって、金毘羅宮や善通寺への参詣客で日曜日や祭日には混雑しました。こののち、鉄道路線として善通寺~多度津桟橋間と丸亀~坂出駅前間が相次いで開通します。先に開通していた丸亀~琴平とはそれぞれ乗り入れを行なっていたこともあり、「ことさん電車」と呼ばれた琴平参宮電鉄は、地域の交通網を拡大していきました。

不況と戦争により客足が伸び悩んだ苦境の時代

しかし、昭和恐慌による不況が客足を遠のかせた上に、琴平電鉄や琴平急行電鉄、また急行バスの運行など、ライバル他社の相次ぐ参入により、琴平参宮電鉄は対応を迫られることになります。各社がサービス合戦を繰り広げるなか、女性運転士やガイドガール(案内嬢)を乗務させるなどの取り組みで、客が離れないような施策を図りました。

こうしたアイデアは人気を博したものの、戦争に入ると物資不足に資材不足、男子社員の多くが招集されたことによる人材不足も重なり、さらに不要不急の旅行はやめようという自粛ムードの広がりで、参詣客目当ての琴平参宮鉄道にとって、厳しい時代となりました。

参詣客が増えたことでバスが進出し、最後は廃線へ

戦後に入ると、戦地からの引き揚げや復員、さらには物資の買い出しなどのため、鉄道は多くの客で溢れ返り、1947(昭和22)年には開業以来最高の乗客数を記録しました。戦争が終わって5年から10年が経過する頃には、世の中も平静を取り戻し始め、金毘羅宮への参詣客も徐々に増えていました。

しかし、当時はすでに、バスがめざましい勢いを見せていました。燃料不足が解消し始めると、丸亀~坂出~高松間の長距離バスが運行を開始し、大きな痛手を受けることになります。この煽りを受ける形で、鉄道線の多度津港~善通寺間の片側線路が外され、単線になります。昭和30年代に入ると、さらにモータリゼーションが進み、1963(昭和38)年にはすべての軌道線と鉄道線が廃止されました。