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路面電車[市電・都電]

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わずか35年で姿を消した西武鉄道大宮線/ホームメイト

「西武鉄道大宮線」は、もともとは路面電車として歴史をスタートさせた軌道路線です。当初は大宮と川越をつなぐ交通機関として活躍。その後、度重なる合併や買収を繰り返し、最後はバスや旧国鉄といった競合と厳しい攻防を繰り広げました。「わずか35年で姿を消した西武鉄道大宮線」では、埼玉初の電化路線として知られる西武鉄道大宮線を解説します。西武鉄道大宮線がどのような軌跡をたどったのか、その歴史の一端を見ていきましょう。

西武鉄道大宮線の黎明期

川越電気鉄道の創設により東京へのアクセスが容易に

西武鉄道大宮線がその歴史をスタートさせたのは、1902年(明治35年)のことです。地元の有力商人「綾部利右衛門」(あやべりうえもん)らが「川越馬車鉄道」を発足。翌年、「川越電灯」と合併し、名称を「川越電気鉄道」へと改めました。当初は電気事業を手掛け、埼玉県で初めて電灯を灯したことでも有名です。

1906年(明治39年)には、川越大宮間の電気鉄道を開業。「東京市電」の車両が使用され、地域住民からは「チンチン電車」の愛称で親しまれました。その後、1914年(大正3年)に「武蔵水電」と合併。

さらに1920年(大正9年)頃には、「川越鉄道」(のちの西武新宿線国分寺線)と「西武軌道」(のちの都電杉並線)を買収しました。

西武鉄道(旧)の誕生

1922年(大正11年)になると、電気事業の業績悪化から武蔵水電は経営難に陥り、帝国電燈に吸収されてしまいます。

しかし、この合併からわずかの間に、帝国電燈は武蔵水電の創設者である綾部利右衛門に軌道部門を譲渡。こうして、綾部利右衛門は西武鉄道(現在の西武鉄道の前身で、「旧西武鉄道」として区別されている)を設立しました。なお、川越鉄道や西武軌道などの路面電車が「大宮線」の名称に統一されたのはこの頃です。

バスや旧国鉄との競合により廃線へ

こうして西武鉄道(旧)は、東京進出が夢であった綾部利右衛門によって本格的に始動。1927年(昭和2年)には東村山から高田馬場間が開通し、これが現在の西武鉄道新宿線のルーツになっています。一方で、西武鉄道大宮線になった元川越電気鉄道の路線は、特に変化のないまま推移していました。

しかし、線路や車両の老朽化が進み、相次ぐ故障や脱線、近隣住民による廃止運動が起き、同時にバス路線も充実。路面電車のルートをなぞるようにバスが運行するようになると、大宮線は運行本数が上下線ともに18本に減少するなど、苦戦を強いられることになります。

さらに1940年(昭和15年)には、国鉄の前身である鉄道省が大宮から高麗川(こまがわ)を結ぶ「川越線」を開通させ、川越~大宮間が約29分で結ばれました。その利便性から乗客が奪われ、路面電車の存在価値が薄れていきます。そして、ついに西武鉄道(旧)は不要という判断が下され、1941年(昭和16年)に正式に廃線が決定。多くの人に親しまれた路面電車・西武鉄道大宮線は姿を消すこととなりました。

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